2023年3月11日土曜日

東日本大震災から12年。

あの日、あの時間、私は一人さいたまの家にいました。

尋常ではない揺れに、老犬ロンと、まずはトイレが安全かと逃げ込もうとしましたが、ロンはトイレの前に座り込んで入ろうとしない…。

息子はその日は帰宅せず、会社に泊まることを選んで、翌朝帰ってきて、と思い出せば断片的に浮かんできます。

テレビは金子みすゞの詩を繰り返し流し、かと思えば停電で大騒ぎ。

でも被災地のことを思い心ざわめく毎日でした。

「子どもたちは・・・」

編んでるシアターを持って行きたい、その想いが届いたのは一年後でした。復興作業のため宿が取れなかったのです。

震災の直前、活動が評価されパナソニックの賞をいただいており、そのご縁で岩手の国民宿舎が一部屋空きがある、との知らせに飛びついて、それから現地のボランテイアセンターとつながって気仙沼、登米市の保育園、学童保育所。声がかかればどこへでも伺っていました。

初めて気仙沼に行き舟に乗った

一年経っても被災地は列車はまだ通っていず、タクシーだけが頼りでした。

そしてさらに一年、パナソニックさんのご紹介で福島のNpo の方々と知り合い活動の拠点を福島に移すことになり、何度か訪問するうち毎回ホテル滞在は大変でしょうから、仮設住宅の空いた部屋に安価で泊まりませんか、とのお話。

その仮設は浪江町の避難住宅で、福島市の佐原にあり、すぐNPOの方の車で向かいながら、山の中に吸い込まれていくような気がして、ああ、ここに住めないだろうか、いや住もう、帰りの新幹線の中で決めていました。

もう70歳を超えていましたから、しがらみはありませんでしたし、ここまで頑張ってきたんだから好きなことさせて、と。(でも今考えると、この年齢のお婆ちゃんを、佐原の方々がよく受け入れてくれたものです)住まいだけでなく編んでるシアター館そのものを移す計画です。



そして4か月後には、工務店さんの資材置き場を改装して住めるようにしてもらい、編んでるシアター館&ふくしまをオープン。

編んでる看板(玉ねぎ添え)

編んでる館内
日がな一日、山すそを歩き回り、お話を作ったり編んでるくんたちを連れてカメラに収めたり・・・。
前の庄屋様みたいな家の庭

子育て支援センター、保育園、学童保育所、福島市のイベント、浪江町のこども園、小学校、呼ばれればどこへでも行きました。

とやの子育てセンター

みんなのいえ


こじか子育て支援センター
浪江創成小中学校


若いお母さんの声も聴きました、仮設住宅のおばあちゃんとも話しました。

でも答えがかえせないんです、重くて重くて。

近くにあづま運動公園がありました。そこでリヤカーを引いて編んでるシアターをする計画を立てて公園側に許可を求めに行ったところ、併設するあづま総合体育館内の絵本ぶんこでやってみては、との提案を受け願ってもない展開になりました。



あづま文庫

そこでは集まる子供ばかりではなく、もうそろそろ何かしなくては、という60代の方々との出会いがありました。そういう方には「ななちゃん人形」差し上げましたが活用できてますかぁ。
教師をされていたという公園近くのジェラート屋さんでの「この絵本読んで!」でも高齢の方々と親しくなり、今でも交流が続いています。
佐々木牧場カフェ

カフェスペース


いろんな方との出会いも、テレビに取り上げてもらったりも。


いつも猿との戦い



福島テレビ

このまま福島に住み着くのも有りかな…と考えた4年目を目前にして病を得て、それまで健康だけが取り柄‼の気概もシュンとし、活動の足であったバイクも動かせなくなって、家人の帰って来いには立ち止まざるを得ずさいたまに戻ることになりました。

仮設も取り壊され、令和になりその後コロナ禍となり、などと私の道はそのように決まっていたのかとこのごろは考えることにしておりますが。

学びはありました。けれどあれから11年、12年と3月になると取り上げられる様々な罹災の体験を見、聞きすると学びだけで終わらせるはずではなかったのに、と悔いは残ります。
今、福島とのつながりは出会った子どもたちに「お誕生日カード」を出すこと。
お誕生日カード’(前は手描きでしたけど)
もう半分くらいは10歳になったり、引っ越したりで終わっているのですが、年賀状でかえってきたりして嬉しいものです。何とか子どもたちが10歳になるまでこちらが持ちますように。
ほんとはもっともっと福島のこと話すことがいっぱいあるのに、忘れられないこといっぱいあるのに、このブログを朝から一日中、書いているのにもどかしい気持ち。
福島滞在記みたいになっちゃった。

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